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2010年01月13日

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)

private写真館 新春特別企画

彌彦神社バーチャルガイドをスタートします。

今回のガイドは弥彦ボランティアガイドのOさんです。
ガイドを受ける観光客役には我々弥彦温泉旅館組合青年部のメンバーが勉強も兼ねて勤めます。

ガイドスタート

一の鳥居前にて

本日は越後一の宮「彌彦神社」へお越し下さいまして、誠にありがとうございます。

不慣れではございますが、約一時間ほど弥彦神社をご案内させていただきます。ボランティアのOです。どうぞよろしくお願いします。

弥彦には年間230万人の観光客が訪れております。
皆様はお泊まりになった宿から、この一の鳥居の前までの道路は全国でもまだ珍しい融雪道路となっております。消雪パイプで足下がびしょびしょになる事も無く、除雪車が除雪した雪で歩道が狭くなる事も無い、雪国では大変有り難い道路です。

鳥居に向かって右側の通りは「社家通り」と呼ばれ、昔から神社にお仕えした「社家」の人々が住んでいたことから名付けられました。現在住んでいたれる方々も皆様昔は「社家」の方々です。

向かって左側は「大門町通り」です。昔お寺があり大門があった事から呼ばれますが今ではお寺は無く、お土産屋さんが並びます。



大門町に向かう角には「明治天皇行在所(あんざいじょ)跡」がございます。
明治11年、明治天皇が北陸御巡業の際、柏崎・寺泊の海沿いの道を経て彌彦神社にお参りになりました。ここがそのとき宿泊された五十嵐森厚氏の邸宅跡です。
当時の天皇ですから、五十嵐氏は明治天皇が宿泊される建物を敷地内に新築しました。残念ながら、明治45年の弥彦大火で焼失してしまいましたが、その跡地を庭園にしまして、現在に至っております。
天皇は、ご休息の折ここの池で釣りをして楽しまれたとも言われております。



そしてこの一の鳥居。
高さ約8.5m、柱と柱の間が約6mございます。中央に掲げられている「彌彦神社」の大額は、畳一畳ほどの大きさで皇族の閑院宮載仁親王(かんのいんのみやことひとしんのう)殿下のお書きになられたものです。

ちなみに弥彦の入り口に立つ「大鳥居」の社号額は畳12畳もの大きさとなっております。

この鳥居は、両部鳥居(りょうぶとりい)という型でして中央の親柱は、地面に着いてなく6cm程浮いており、両脇の稚児柱で支えられております。



なぜ真ん中の柱が浮いているかは諸説ありますが、雪の多いこの地で親柱の腐食を防ぐ為とか地震で揺れても折れないようにとかと言われています。

それでは中へまいりましょう。

石橋にて

この石でできた橋をよく見て下さい。



どこにも継ぎ目がございません。大きな一枚岩を平タガネでコツコツ削り、彫りだしたものです。
継ぎ目に水がしみ込んで壊ることがないように一枚岩で作られました。



下を流れる川は、御手洗(みたらし)川と言います。以前は神社参拝の前に、この川で足を洗い、体を清め、口をすすいでから参拝しました。従いまして、左側から入り右側から上がれるように両側が階段になっております。

奥に見える橋が、玉の橋です。神様がお渡りになるご神橋ですので人間は渡れません。
明治の弥彦大火の時に唯一焼失を逃れた事から、「火伏のお徳」があるともいわれています。
境内整備の折に弥彦公園に移転された時期もありましたが、昭和60年現在の場所に移築し直し、保存のため上屋も翌年造られました。

それでは先に進みましょう。

....次回に続きます。
  

2010年01月16日

彌彦神社バーチャルガイド その弐(鹿苑~津軽火の玉石)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)

石橋を渡り、参道から右へ曲がる

日本鶏舎、鹿苑にて



冬囲いのため、良く見えませんが、
こちらの鶏舎には、県内愛鶏家より寄進された天然記念物に指定されている日本鶏17種類を展示飼育しております。中には新潟原産で日本三長鳴き鶏として有名な濁鶏(とおまる)も含まれています。

右に鹿苑がございます。



万葉集に
いやひこ神の麓に今日らもか鹿の伏すらん皮ころも着て角つきながら
と詠まれている事を偲び、大正二年に奈良の春日神社の神鹿を一番(ひとつがい)もらい受け、育てたのが年々増えて現在にいたっております。



鹿苑の奥に弓道場、左に相撲場、道路を挟んで奥に桜苑がございます。

相撲場には屋根があったのですが数年前の台風で壊れてしまい、今はございません。
ここでは毎年8月27日には江戸時代から続く神事「相撲節会(すもうせちえ)」に併せて、
奉納相撲大会が開催されます。

鶏舎を過ぎて

皆様、ちょっと見えにくいですが右手の木立の中をご覧下さい。



石碑が二本ございます。

長い方の石碑、文字が読めない程ですが「國幣中社彌彦神社」と書かれてます。
文字が風化して読めなくなったのではありません。

国幣中社とは延喜式に定められた旧社格で、新潟には大社は無く、中社は彌彦神社のみとなってました。
元々は一の鳥居脇に設置されておりましたが、敗戦後、国との関わりの深い神社は危ないとの噂から文字を潰してこの場に移したそうです。

その隣の「百度石」は文字通り、お百度参りの時に折り返し地点にあったものですが
「何故ここに移したのか?」との質問に
当時を知る神社の職員は「単に邪魔だったから一緒に移した」と言ってました(^^;

まあ、戦後にはお百度参りをする方も居なかったようですし(^^)

左折して参道に戻る階段を登って

津軽火の玉石

皆様、ちょっとこちらの奥までお越し下さい。

標識も説明もございませんが

この二つの石、津軽火の玉石と呼ばれております。
昔、津軽藩の殿様を乗せた北廻船が佐渡沖を航行中に嵐に遭い、
「もし助けてくれるならこの船の帆柱を鳥居にして納めます」
と彌彦神社に向かって祈ったところ、たちまち嵐は納まり無事に弘前城に戻られました。
人間喉もと過ぎれば何とやらで約束をすっかり忘れていたところ、夜な夜な火の玉が城内に飛び交うようになり、難渋されました。
殿様は約束事を思い出し、帆柱と津軽の山から切り出した大木で造った大鳥居を奉納したところ、
火の玉も無くなったそうです。その時鳥居と一緒に奉納した火の玉がこの石だと言われています。
一の鳥居の真ん中の柱が浮いているのは、帆柱が鳥居には少し寸足らずだったという説もあります。

また、別名を「重軽の石」とも呼ばれております。
願い事を心の中で念じ、それを思いながら石を持ち上げます。
自分が思ったより軽く感じましたなら願い事が叶い、重く感じたら叶わないと言われています。

ではお試し下さい(^^)



観光客役部員S:「お....重いです」

残念ながらS君の願いは叶わないようです(^^;

ガイドOさん:「石は二つあるので最初に奥の大きい方を持ってから手前の方を持つと軽く感じますよ」

観光客役青年部全員:「おぉ~そんな裏技があったとは」

ガイドOさん:「いつも持った後に教えてあげます(^^)」

....その参に続きます

  

2010年02月11日

彌彦神社バーチャルガイド その参(宝物殿~御神木)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)

宝物殿を奥に見て



奥に見えますのは、彌彦神社に奉納された文化財を展示した宝物殿です。源義経の軍扇、上杉輝虎(謙信)の祈願文をはじめ、重要文化財の志田大太刀(しだのおおたち)、大鉄鉢(おおてつばち)、重要美術品の青磁香炉、その他県内出身の著名作品50点ほどが年間を通じて一般公開されております。
大火前はここに社殿がありました。



縄で囲まれた場所が昔の本殿です。

宝物殿裏には、日本では唯一、村営の競輪場となっている弥彦競輪場がございます。

観光客役部員K:「何故神社の裏に競輪場?」

ガイドOさん:そう聞かれる事も多いのですが、元々は県内の石油会社が陸上グランドを彌彦神社に奉納した場所が競輪場として使われるようになりました。



これは日本初の石油蒸留釜で平成13年柏崎の日本石油加工㈱柏崎工場より奉納されました。
全国に二基しか現存しない大変貴重なものです。

新潟の石油産地だった蒲原・三島・刈羽・古志の各郡内は弥彦信仰の地域とほぼ重なっています。
関係者は石油を掘るにあたっては、まず彌彦神社に祈念して発掘の成功と工事の安全を願ったそうです。
その結果、彌彦神社は石油の守護神となり、その信仰は秋田県をはじめ県外にも広りました。
戦後になって海外での大規模な石油発掘が始まると、例外なく第一に彌彦神社に参拝して祈願するなど、今でも石油の守護神として大きな信仰を集めています。

二の鳥居の手前



二の鳥居の右側にありますのが、彌彦神社の御神木です。
神様がこの地を訪れた時、お持ちになっていた椎の杖を地中にさし、
「この土地が私が永住するにふさわしい所ならば、根を生じ芽を出し繁茂するであろう」と仰せられました。
すると見事に生育し、大木になったと伝えられています。
大火で焼けてしまいましたが、また芽をだして育った事から「やはり御神木なんだ」と人々を驚愕させました。
現在は少し上のほうは枯れかかっておりますが、下からまた若い枝も出てきております。
下には彌彦神社を度々訪れた良寛の御神木を詠んだ句が掲げられております。

その四に続きます。  

2010年03月07日

彌彦神社バーチャルガイド その四(手水舎~絵馬殿)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)

二の鳥居に向かって左側

手水舎前にて



古くは御手洗川で手足を清めてましたが、現在は簡略化されてこの手水舎にて手水を行います。

作法は全国共通ですので覚えておいて下さい。

まず、右手に柄杓(ひしゃく)を持って水をくみ、左手を清めます。
次に左手に持ち替えて水をくみ、右手を清めます。
再び右手に持ち替え水をくみ、半量程を左手受けて口をすすぎます。



最後に柄杓を立てて残りの水で柄の部分を流し洗いして終了です。
よく柄杓に口をつける方がいますが、無作法なので避けましょう。

絵馬殿にて




こちらの建物が絵馬殿です。当初は、本物の馬をお供えし、五穀豊穣を祈るのが始まりでしたが。
その後、著名な絵師に馬を描かせて奉納するほうがより高価となり流行りました。

中へ入ってみましょう。



絵馬を奉納するようになると、自分の願い事にまつわる絵を描いて奉納する、
例えば目を治したければ目の絵、旅の安全を祈るなら足の絵、
漁の大漁を祈るなら魚の絵と馬以外の願い事にまつわる絵を描いてお供えする事が普通となりました。

中には大変古い物や、著名人の奉納した物もあるようですが、
如何せん皆が勝手に奉納して行くのが常でしたので神社も整理出来ないでいるそうです。



弓矢の絵馬や



ワニの絵馬もあります。



競輪場が陸上競技場だった頃の記録も展示されてます。

その五に続きます。

  

2010年03月19日

彌彦神社バーチャルガイド その五(神馬舎~舞殿)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)

絵馬殿を出て二の鳥居をくぐる



神馬舎前にて



神の馬と書きまして「しんめ」そしてこちらの建物を、「しんめいしゃ」と読みます。
この神馬像は、東京上野駅前の西郷隆盛像の作者高村高雲の一番弟子、山本瑞雲の作品です。
まず石膏で神馬を形造り、それをもとに神社境内古木の欅(けやき)で、精魂傾けて5倍に拡大彫刻を行い、寄木造りで白い神馬を完成させました。昭和7年に現在の三条市の福島要吉氏に寄って彌彦神社に奉納されております。




今日は扉が開いてます。
普段は扉が閉じてますが、お正月と燈籠神事には空けられ、より真近にご覧いただけるようになっております。
(注)バーチャルガイド取材日は1月7日です



神馬舎を過ぎて直ぐ、右側を見る

木立の向こうに見えますのが、舞殿、その奥が参集殿です。
彌彦神社には古来より伝承されている数々の舞楽があります。
大別すると第一に燈籠神事でお稚児様が舞う秘舞「神歌楽」(かがらく)「天犬舞」(あまいぬまい)
第二に大々神楽(だいだいかぐら)、第三が小神楽(おかぐら)となります。
いづれも国の重要無形文化財に指定され、神職により大切に保存継承されて来ました。
この舞殿で奉奏されるのは大々神楽だけで、毎年4月18日の妻戸大神例祭(つまどおおかみれいさい)の日のみ、全13曲が奉奏される行われます。
全曲が奉奏されるのはその日だけですが、3月18日から6月までの春と9月、10月の秋にも毎土曜日の午後2時より数曲、大々神楽が奉奏されます。

奥の参集殿が、一般の方が舞を見る場所になるわけですが、舞楽は神様に向かって行われるので、それを脇から拝観する形となっています。

4月18日には多くのカメラマンさんが参道側から撮影しておりますが、神様にお尻を向ける形となるのであまり好ましくありませんネ(^^)

観光客役 私:イケネ、俺もやってた(^^;

その六に続きます
  

2010年05月31日

彌彦神社バーチャルガイド その六(摂社・末社)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)




随神門の手前を右に入る
(撮影は1月7日)



こちらには大火後の境内整備に合わせて八つの摂社・末社が並んで祀られております。

簡単に言いますと摂社とは大神様の子孫の神様をお祀りする神社、
末社とは彌彦神社に関わり深い全国諸々の神様をお祀りする神社の事です。



向かって左より摂社、大神様より数えて二代目の「武呉神社」、四代目の「草薙神社」
五代目の「今山神社」、六代目「勝神社」、七代目「乙子神社」と並び、
その横に末社「二十二所神社」、「八所神社」「十柱神社」と続きます。
ちなみに三代目の「船山神社」は新潟市の旧巻町、福井に祀られております。



真ん中にある「勝(すぐる)神社」



勝負事の神様ではないのですが「勝(かつ)」の字から縁起をかついで
記念競輪開催時などは出走前の競輪選手や車券を購入するお客様が
必勝祈願に訪れるそうです。




末社の一番右側の茅葺き屋根が「十柱神社」です。
この建物は、元禄7年長岡藩主牧野家の奉納によって建てられたものです。
室町の手法および桃山時代の様式が見られ、昭和25年に国の重要文化財に指定されています。

ここに建てられている摂末社の他にも周辺町村や境内の別の場所に桜井神社、妻戸神社、船山神社、某(ぼう)神社、火宮神社、住吉神社、上諏訪神社、下諏訪神社、祓戸神社、湯神社があります。

もともと新潟は、全国でも一番神社の多い場所です。
どの位あると思いますか?

新潟県内には、4853の神社があるといわれています。
ちなみにお寺の一番多い県は愛知県だそうです。

その七に続きます
  

2011年01月14日

彌彦神社バーチャルガイド その七(隋神門~拝殿)

彌彦神社バーチャルガイド その壱(一の鳥居~玉の橋)(←初めての方はこちらからご覧下さい)

半年以上も放置してました彌彦神社バーチャルガイド、ついに最終回となりました。

隋神門前にて



階段の上に見えます門が隋神門(ずいじんもん)です。

神様がこの地に来られるときにお供をした隋神様をお祀りしております。
右が長気(おさげ)、左が長邊(おさべ)の兄弟です。





長気が口を開いているのに対し、長邊は閉じています。”あ・うん”ですネ。
現在でも質実剛健、力の強い武神として弓矢・刀を身につけ、邪悪なもの全てをはね返し、神門をお護りしています。



両脇の狛犬も特徴があり、伸び上がった姿でスマートな狛犬です。
これは、現社殿設計者で東洋美術に詳しい工学博士・伊藤忠太氏の考案に基づき、
新海竹太郎氏が原型を造り、名工酒井八右衛門が刻んだものです。

ではいよいよ中に入ります。

一同随神門前で一礼して入る



拝殿の奥をご覧下さい。

私達が参拝する建物の後ろにも屋根が2つ見えます。

一番奥が神様が祀られている建物、
その手前は天皇家のみが入る事のできる建物です。





彌彦神社の御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)のひ孫にあたる天香山命(あめのかごやまのみこと)をお祀りしています。
大神様は、紀州、現在の和歌山県に住んでおられ、神武天皇の国家統一にお力添えをされました。
その後、勅命により越後地方開拓経営のために遣わされたといわれております。

日本海を船で渡り、現在の寺泊野積浜に上陸されました。
そこで網を用いて魚をとることや海水から塩を採る事を教えた後、
海側から弥彦山の峠を越え、現在の弥彦の地に定住されました。

越の国を平定して、住民に稲作や酒造りもご指導されたといわれてます。

こちらからは弥彦山の頂上も望めますが、弥彦山山頂には、
弥彦大神様と姫神様をお祀りする奥院「御神廟」があり、
最近は縁結びの名所としても注目されております。




一般的には二拝二拍手一礼の作法で参拝しますが、
彌彦神社では、二拝四拍手一礼が正式です。

それでご一緒に参拝致しましょう。

一同参拝

本日はつたないガイドにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
越後一宮、弥彦大神さまにご参拝いただきましたので、
皆様のこれからのご多幸は、間違いないと思います。

とりあえず、雪道で転んだりしないよう、お帰り道に気をつけて下さい(^^)


本日は、ありがとうございました。

観光客役部員一同:「ありがとうございました」